三秀舎116年の歩み HISTORY

関東大震災直後の仮営業所(乃木神社境内)

三秀舎の創業は明治33年、西暦1900年。 明治初期にわが国が西欧型の文化を取り入れたことにより、さまざまな近代技術が急速に普及しつつある時代でした。 このころの印刷需要の高まりと軌を一にした創業であったといえます。 以来、激動の20世紀とともに歩み続け、2001年、21世紀の到来とともに創業100周年を迎えました。 いつの時代も私たちの前にあるのはチャレンジという文字。 時代や社会の試練を受けながらも、更に高い技術やサービスのハードルを乗り越え、新しい事業展開を図っています。 印刷の歴史に自らの手で確かな足跡を印したい。 幅広い分野で三秀舎は更なるチャレンジを試みてまいります。

三秀舎と文芸雑誌「スバル」

明治41年(1908年) 12月8日 
電話、昴の用で来てくれと平野君から。  二人で平出君許へ行つて、ハガキ広告をやるその台帳のハガキを分類した。久振で伊上凡骨に逢つた。夕方三人で三秀舎にゆき、それから予の許に来ることにして、電車。菊坂町でビールをのみ、洋食二三皿を食つて帰宿、三人で色々“昴”の話。 「啄木全集第15巻」、岩波書店(1961)

森鴎外や与謝野寛(鉄幹)、与謝野晶子らが協力して発行した文芸雑誌「スバル」が創刊されたのは明治42(1909)年1月。その印刷は三秀舎の手になるものでした。明治43(1910)年の「白樺」創刊より1年以上も前に、三秀舎は日本文学史に名高い雑誌をもう一つ手がけていたのです。スバルとの関係は、大正2(1913)年12月の最終巻にいたるまで続きます。 創刊号の発行人を石川啄木が務めたスバル。石川、木下杢太郎、高村光太郎、北原白秋らが活躍し、反自然主義的、ロマン主義的な作品を多く掲載し、同人らはスバル派と呼ばれました。 森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」「青年」「雁」などはスバルが初出。鴎外が三秀舎を訪れることはまずなかったでしょうが、その手書きの原稿は三秀舎の手によってはじめて活字になったのです。

石川啄木「啄木日記」と 三秀舎

石川啄木は創刊準備から第12号発行までの約一年間、文芸誌スバルの編集発行人を務めました。

当時の啄木の日誌には「三秀舎」の文字が頻繁に登場します。三秀舎の近所で火事があったため校正の期日が延びたこと、夜中の2時まで三秀舎に詰めて校正をしたことなど、興味深いエピソードを交えた日誌を追っていくと、スバル派の人々(特に編集長である啄木と編集の中心メンバー)が毎日のように三秀舎に出入りしていたことが分かってきます。

以下、三秀舎が出てくる部分を抜粋します。文中に出てくる「与謝野氏」は与謝野寛(鉄幹)、「金田一」はアイヌ語研究の金田一京助(彼は啄木の親友だったとのこと)。また「北原」は、北原白秋であると思われます。

明治41年 十二月六日。 午後一時、三秀舎へ行つて、少し直すところがあるので“赤痢”の原稿を持つて来た。門の前で、吉井君。入つて話してると、二時頃、女中が来て“先夜の方が”といふ。小奴だ。別室に通しておいて室に戻つてくると、吉井はすぐ帰つた。奴をつれて来て、夕方まで話す。突然平野君が来て半時間許りゐて帰つた。
十二月七日 “赤痢”を直して三秀舎に送つた。
十二月九日  朝、明日から昴の校正が初まるので、吉井が、この下宿へ来ることにして帰つて行つた、妹からハガキ。伝道婦になる件。  平野君が来た。すぐ原稿の催促に行つた。  夕方また来た。共に晩餐。昨夜三秀舎の近所に火事のあつた話をしてるところへ、三秀舎からハガキ、校正は十五日からに延びた。  二人で夜おそくまで交換広告の依頼状を出したり、広告主を調べたりした。ソバを食つた。 平塚らいてう「元始、女性は太陽であった―平塚らいてう自伝 上巻」、大月書店、1971年

平塚らいてう「青鞜」と三秀舎

平塚らいてうの自伝(平塚らいてう「元始、女性は太陽であった――平塚らいてう自伝 上巻」、大月書店、1971年)にも三秀舎が登場します。1911年8月、「青鞜」創刊前後の回想です。印刷所を三秀舎に決めた理由が「品質」であったことなどうれしい記述も登場します。

事務日誌 八月八日 「荒木氏より戯曲の原稿送附ありたり。 木内氏を訪ない精美堂の見積書を貰ひ、三秀舎に行き印刷の見積を頼みてかへる。 中野氏千葉に立つ。」(p.321)

「このとき印刷屋からとった見積はどこも同じようなものでしたが、「白樺」や「スバル」の印刷がきれいだということで、他より幾分単価が高かったのを、結局その印刷所――神田の三秀舎に頼むことに決めました。」(p.323)

「校正はわたくしと保持さんが中心となり、中野さんが最初手伝ってくれました。なにしろはじめてのことで、活字の大きさも、校正のやり方も分からないのですが、中野さんに教えてもらったり、三秀舎の人から教えてもらったりしながら、楽しくやったものでした。こうしてやっているうちに、わたくしもだんだんと、このあたらしい仕事に気が入ってくるようになりました。」(p.324)

「暑いさなか、神田三秀舎の二階で汗を拭きふきやった校正も全部おわって、ついにわたくしたちの「青鞜」創刊号は世に出ることになりました。部数は千部、頁数は広告を抜かした本文百三十四頁、定価一冊二十五銭でした。」(p.325)平塚らいてう「元始、女性は太陽であった―平塚らいてう自伝 上巻」、大月書店、1971年

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